思い出し雑記
UPLの思い出
UPLって92年に倒産して14年(注:2006年現在)も経つのにまだマニアがいるって凄いですよね。 もっと大きい会社が数多く消えていってるのに...
本社は70人くらい居たようだけど、実質的には東京の10名前後だからねぇw
俺は元々UPLのことを知らなくて、忍者くんはやったことあったけどUPLの名前は知らなくて、
シューティングやりたいから、タスクフォースハリアー出してるのをゲーセンで確認してから 面接受けたんだよなぁ。
ハリアーがNMK製作って知ったのは入社後しばらくしてからだった^^;
まぁUPLはシューティングだけでなくユニークなの色々やってたからマニアが今でもいるんだろうねぇ。
あの牛丼臭いタコ部屋が懐かしいねぇ。
ダンボールのパーティションや小学生の勉強机のようなのが懐かしいw むき出しのブラウン管だったねぇ。
木箱の席って覚えてますか? むき出しのブラウン管を木箱で覆ってあったのが返って貧乏臭くて耐えられなかったのか、
そこの席をあてがわれた新人君は3日くらいで辞めちゃったねぇw 社内用のグラキーボードに慣れなかったのかもしれないなぁ。
あれって直線すら引けないんだよね?(爆) あの時代はどこもそんなもん...てことはなかったよなぁ。
貧乏臭いといえば、トイレの前の廊下に無理やりの応接室も懐かしいw
KNY
(「鋼鉄要塞シュトラール」プログラマー)
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初訪問
実家のある仙台から夜行バスと山手線を乗り継いで、初めてUPLを 訪れたのは忘れもしない90年の11月27日だった。
学校に送ってもらったFAXを 頼りに、松坂屋の間を通り抜け、今も1Fに「吉野家」が入っている、 あのビルにたどり着いた。
エレベータで3Fに登り、ドアをノックした。 まもなく「どうぞ」という声がする。そろそろと中へ入り、緊張でガタガタに なりながら、
学校で見せられた「会社訪問」の教材ビデオの通りに、 「●●●から参りました、●●です、よろしくお願いします!」と
力いっぱい告げる。今にして思えば場違いな事この上ない。
開発部長のF氏は僕のイメージとかなり違った。「ちょっとふっくら目で、メガネで」と 勝手に想像していたのだけど、
本人はほっそりしていて、メガネもしていなかった。 この人がなあ、と僕は思った。
言うなれば巨人ファンの前に長嶋茂雄が座っている ようなものなのだ。緊張は頂点に達した。
それから何を話したかはよく覚えていない。たぶん、学校で何を習ったのか、とか、
この会社がどんな業務をしているか、とか普通に話したのだと思う。
やがてF氏が言った。「何か質問はありますか?なんでもいいですよ?」
ここで僕のオタク魂が緊張を乗り越えてしまった。なぜ、ヘンなゲームばかり作るのか
(答え:他社と同じことをやっていては生き残れないから)とか、UPLの ゲームには残像が付き物になっているけれど、
あれはどういう仕組みなのか (答え:カラーパレットを指定して、残像を残すかどうかを設定する。
<図を描いて>こうすれば忍者くんの行列を表示できる)とか、いろいろ聞いたのだが、F氏は どの質問にもとても丁寧に答えてくれた。
帰りは秋葉原に寄って、(メガドライブ版テトリス海賊版)とか地方では絶対できないマニアックな買い物をした。
とても満足だった。あの時は正直合否なんてどうでも良くなっていたと思う。
ヨシ
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修行の日々
翌91年4月、僕は正式にUPLに入社した。と言っても3ヶ月は「仮採用期間」で、 その間は新人研修を受ける事になる。
しかし、ああいう小さな会社の事で、 研修用の正式マニュアルがあるわけではなかった。とにかく、僕にはPC-9801VXと
当時のアーケード基板で標準的に用いられていたCPU「68000」のICE(数百万はする高価なエミュレーター)と「タスクフォースハリヤー」の基板と、
それからモニタに「ポーカー」の画面が焼きついた(薄く「GOOD LUCK!」の文字が見える)ボロいテーブル筐体が与えられた。
まず、僕の指南役のA氏(どこの現場にもいる大黒柱系プログラマー)が 「フロッピーディスク」の入ってないPCの電源を入れる のを見て驚いた。
「なにやってんだこの人?」と思った。「ハードディスク」というものの 存在は知っていたけれど、実際動いてる所を見た事がなかったのだ。
なにやらDOSが起動 するのを見て、ようやく状況を理解した。A氏がキーボードからカタカタ入力すると、さっきまでグチャグチャにバグったような
画面だったテーブル筐体のモニタの表示が切り替わり、数字がカウントアップするだけの映像が浮かび 上がった。A氏はそのソースリスト(もちろんアセンブラ)を示し、
「2ずつカウントするように直してみて」と僕に指示した。はじめて見る68000の ニーモニック だけど、そのコードの言わんとしてる事は分からなくない。
それらしい箇所の「1」のところを「2」に書き換えて、アセンブル、リンク、実行。結果は成功。 最初の課題は無事にクリアした。
次の課題は「テストモード」を作る事。「基板の仕様を理解するのには、これが一番手っ取り早いから」とA氏は言う。なるほど、ごもっとも。
僕は製品のゲーム基板を貸してもらってテストモードの構造や動作をメモに取り、基板のマニュアルを読みながら、「FRONT」(これはUPL独特の表現で、
つまりはスコア表示になどに用いられる8x8ドットのキャラクタ表示レイヤー)、 「OBJECT」(スプライトともいうあれ)、「BG」、「INPUT」、 「SOUND」と、
テストモード一式を、(たぶん)1日で作った。A氏に出来上がった事を告げると「もう出来たの?」と驚かれた。憧れの会社で、 憧れの機材をいじり倒せる喜びが、
スピードを産んだのだろう。ハタチ前でガッツも有り余るほどあったし。
そして、次はいよいよゲーム製作。タイトルはなんと「オメガファイター2」。
これはオブジェに「オメガファイター」のROM、背景に「バンダイク」のROMを使用する。あり合わせの、しかもめちゃくちゃな組み合わせではあるけれど、
ちゃんとした様式の仕様書もあって「プロみたい」と、素直に感動した。まず、傾きのアニメーション付きで自機が8方向に動くようにする。
「斜めに入力した時の移動量が 単方向の時と一緒でしょ。それだとスピードが速すぎて不自然だから修正して」と、 細かいチェックが入る。
なるほど、そういうものか…と数学的な裏づけもなく修正したのだが、OKをもらう。それから、自機に弾を発射させ、
まっすぐ飛んでくるザコを作り、そいつに弾を 飛ばさせ…と、仕様をこなすうちにだんだんゲームっぽくなってきた。
ここでまた「(作業が)早いなあ」と感心された。その時はちょっと得意になっいてたのだが、今にして思えば、後先を全く考えずに
やみくもにコードを書いていただけの事である(後にあちこち痛い目にあった)。
その後も敵から自機への角度を求め、そこから扇状に弾を飛ばしたり、ホーミングミサイルを作ったり、地形との当たり判定を取ったり
(中心の判定だけじゃ駄目だよ…とあらかじめ言われてたのに、どうしてもいい方法を思い付けなくてそのまま作ったら怒られた)、
デモプレイの記録・再生をしたりして(ゼビウスみたいなランダム動作にしたらこんなの駄目と言われた)、作り込むほどゲームはゲームっぽさを増し、僕も経験値を貯めていった。
最後の課題は多関節のボスだった。擬似的な多関節のアルゴリズムを教わってコードに落とし、2本の腕が生えたボスに
もろもろの微調整をして、「オメガファイター3」は完成となった。
ヨシ
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